代表トレーナーインタビュー①:内田愛亮|パーソナルジム Bios ビオス|ビオスグループ株式会社

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代表トレーナーインタビュー①:内田愛亮

2022.06.12

代表トレーナーインタビュー①:内田愛亮

 

①メインで活動している店舗を教えてください。

 

西新橋店

 

②トレーナーになるまでの経緯と魅力を教えてください。

 

経緯を説明すると長くなりますが、ご理解ください。

元々は医師を志していました。

理由は小学校の時、母親を原因不明の病で亡くしたことがきっかけです。

体重が30kg台まで落ちてしまい、体温も低い状態でとても苦しいなか生活をしていました。

そんな母親の病気を治したいと医師を志しました。

治療方法もなく小学六年生の時に母親を亡くした後「お医者様でも治せない病気がある。」と実感しました。
それならば病気になる前に健康へ導ける仕事をしたいと漠然と思い、中学高校を過ごしてきました。

「不健康の前に、なんとかすること」ができるというトレーナーになりたい。現在の機能改善・予防医学の考えはその時から変わりはありません。

 

中学生に上がり、家庭の事情で母方の兄が私を養子として迎え入れてくれました。
叔父は高校野球・社会人野球を本格的にやっていて、休みの日にはよくキャッチボールをしてくれたことがとても良い思い出です。

運動が全くできなかった私にとって初めてスポーツに触れ、野球に触れ、運動の楽しさを感じさせてくれたことが、スポーツの現場に興味を抱くきっかけでした。

その経緯から中学生の時は野球に関連する仕事が良いな、という思いがありました。

「野球に関連する仕事が良い→選手では難しい→プロ野球にはトレーナーがいる→野球のトレーナーになりたい。」

 

将来の目標が少しずつ見え始め、トレーナーに対しての勉強の一環で、あらゆるスポーツを学びました。
野球はもちろん、ソフトボール、テコンドー、スノーボードなど他競技に触れて経験を積み、トレーナー関係の大学進学も決意しました。

大学授業の中で、「将来の目標の人にインタビュー」というものがありました。

当時、西武球場の警備員のアルバイトをしていて、西武ライオンズのストレングストレーナーにインタビューをする機会を頂き、よりトレーナーへの想いが強くなりました。

私はとても極端な性格で、「この大学を卒業してもトレーナーにはなれない」と、大学二年の夏に急に思いその後1年半大学不登校になりました。

 

フィットネスクラブのインストラクターと野球場での警備員のダブルワークをしながら、大学に行かずにもやもやとしている生活を送っていたある日、トレーナーの師匠から、NSCA(トレーナー資格団体)という団体があり、その資格が取れる認定校があることを教えてもらいました。

そこが私の人生の転機だったと思います。

その認定校が当時日本に4校しかなく、編入制度がある大学が大分県しかなかったのです。

編入試験を受けることを決意したと同時に大学の硬式野球部が全国トップレベルで強い事を知り、即座に野球部監督にストレングスコーチをやりたい旨を手紙で知らせコンタクトを取りました。
当時野球部が強かったのですが、治療ができるトレーナーはいたのですが、ストレングスのトレーナーがいなかったのです。
前例がなかったのですが、自分で責任を持てるなら良いという承諾のもと受理され、無事大学3年時編入と野球部ストレングス&コンディショニングスペシャリストとして入部が決まりました。

そこからの2年間はトレーナーの勉強と野球部でのコーチ活動のみの生活でした。

しかしながら、野球部のトレーナーは理想と違った部分もありました。

選手からの感謝の言葉で喜びはあったのですが、学生指導だったため、先生と生徒という指導を求められる部分もあり、自分のキャラと違うと感じたのです。

 

トレーナーとして感謝されることは多く、この職業は間違いないと確信した二年間でもありました。

母親のような身体に悩みがある方々を救いたい一心は変わらないと改めて立ち返ることができ、東京に帰ってトレーナーをしよう、と帰京しました。

 

③ビオス設立のきっかけ、理由を教えてください。

 

帰京してから4年間、渋谷にある加圧トレーニングの正社員パーソナルトレーナーとして活動していました。

野球選手への指導から、一般の方へ対象が変わった事により勿論苦労はありましたが、今まで以上に楽しさとやりがいを感じながら仕事をすることが出来ました。

 

一方で、トレーナーとしての業務のやりがいはありますが、会社の一員としての働き方には正直息苦しさを感じていました。

4年間勤めあげた店舗を辞めるか・他店に異動するかという選択を迫られたとき、私は迷わず辞めて独立するという決断をしました。

初めは出資者の方と、後輩の小林(ビオス共同代表)と一緒に店舗を立ち上げると意気込み退社をしましたが、現実は理想通りにはいかないものです。

出店先が見つからない、融資が下りない、などの理由から店舗を立ち上げる話は1年以上宙ぶらりんになり計画は自然消滅していきました。

退社直後は小林と路頭に迷い、お互い貯金を切り崩し生活、メルカリで物を売って生活をする無職野郎になり下がりました。

 

そこからフリーランスパーソナルトレーナー4年間の活動がスタートします。

収入を増やすため最大で8か所と契約をさせて頂き、活動をしていました。

フリー時代は月30日働き、夜24時に帰宅し朝6時に仕事に向かうことが当たり前の生活をしていましたが、30歳が近づくにつれ、体調を崩したら生活が成り立たない不安感も大きく感じていました。

自分が倒れたら終わり、という恐怖があり、マンションの1室を借りて店舗を立ち上げようと思えなかったのかも知れません。

フリーで活動しながらも、トレーナーを志した当時から大義を常に考え活動してきました。

その頃には
【日本全国の方を健康にできる事業がしたい】
と考えるようになり、その目標は一人では達成できない、賛同できる方々と仕事していきたい、と感じていました。

 

しかし2018年に転機が訪れました。

2018年1月上旬に契約している店舗が前触れもなく急に潰れました。

会員様にもスタッフにも十分な説明はされず、閉店したことに対して憤りと同時に、逆にチャンスなのでは、と感じました。

すぐに他店で一緒に勤務していた小林へコンタクトを取り、一緒にこの環境で新たな事業を出発させようと行動しました。
小林は二つ返事で賛同をくれたことを本当に嬉しく思っています。

1月〜2月は、どうしてお店が潰れてしまったかをリサーチし、すべての会員様へ謝りに行きました。

 

この仕事がとても大変でした。
会いに行った会員様に烈火のごとく怒られますが、私は何の権限もないただの契約トレーナー。
いきさつを丁寧に説明し理解を得ることが事業を受け継ぐことへの責任と考えていました。

同時に大家さんへ自分の健康に対しての夢を語り尽くし、信頼を得て晴れて4月はじめに請け負えることが内定しました。

 

 

④普段の仕事に生かされている、あなたのスキルや武器はありますか。

 

めちゃくちゃ細かいです。

特にお金の管理は、一円のずれも許せない性分です。

全ての業務に対して会員様やトレーナーが不安に思わない様常に気を配っております。

それはお客様を対応をする上で、想定される問題を事前に考えることができ、そして対処できると思っています。

最近ではやっと問題が起こらない様にする仕組みづくりにまで考えが及ぶようになってきました。

ほかにもやりたいことのアイディアが出てくるので、やるべきことが無限に頭に溢れてきます。

 

②へ続きます。

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